「ひらいボディケア 三島店」痛み・シビレを早期に根本改善

初めまして。

ひらいボディケア代表の平井重人と申します。

なぜ、ひらいボディケアを設立したのか?

なぜ、理学療法士から整体の道に進んだのか?

生い立ちから現在に至るまで動画にまとめてみたので

ぜひご覧になってください。

幼少期
1076年9月27日に静岡県に生まれる。鉄道関係の仕事をしている父、キャディーをやっている母、祖母、3人兄弟の長男として生まれる。
両親は共働きで、父は1日おきに夜勤だったので、祖母に面倒を見てもらうおばあちゃん子として幼少期育てられる。

小学生
4年間サッカーをやったが芽が出ず、4年間補欠として過ごす。試合に出れない私を見かねて、監督のやさしさで、私の1つ年下の弟の試合に、私は出場することになる。しかし、兄として弟の同級生の試合に弟と出る屈辱に耐えられず、試合会場から逃げ出し、大人が総員で捜索する惨事となる。このときの弟の友達からバカにされた屈辱と、兄が、学年が下の自分の試合に出るという弟の落胆した姿を見て、強烈にプライドをへし折られた。この挫折感が私の人生を大きく変えることになる。

小学5年生のときの先生に、「継続は力なり」という座右の銘を授かる。とくに勉強ができるわけでもなかったが、学校の宿題以外に、毎日大学ノート1ページの日記や、4ページ分の自主勉強などをしていた。このとき自分には才能も頭の良さもないが、継続すれば大きな力になるという考え方を教わり、今の私の根幹にもなっている。

そんな中、祖母もまだ肉体労働で働いていて、身体が疲れていたので良くマッサージを頼まれる。祖母は私のマッサージを良く「上手だね」とほめてくれた。このときの喜んでもらえたという感情が今も残っている。思い返すと、小学校のマッサージが気持ちよいわけではないが、孫のためにほめてくれたのだろう。

中学生
小学校時代に弟のサッカーの試合に出場した屈辱や、弟からは「お兄ちゃんは恥だ」と言われるようになったことなどが重なり、弟や周りの人から認められたい!という承認欲求が強くなった。目立ちたい、認められたいという思いから不良になれば目立つ、人に認められると勘違いをして、中2から不良グループに入るようになり、親や周りに迷惑をかけるようになる。

高校生
素行不良は留まることなく、高校入学してわずか3か月で無期停学となる。この無期停学の間に職員会議で退学が決まり、入学半年後に退学勧告を受ける。そのときに始めて父親の涙を見た。期待をかけていた我が子が人を傷つけたことがショックだったのだろう。そして私はここから人生の底辺に転落することになる。

周りの同級生が部活や高校生活を楽しむ中、私は16歳から土建会社に勤めながら、地元の暴走族グループに入る。バイクを改造して警察につかまったりと、両親と地域の人たちに多大なる迷惑をかけた。

素行不良はエスカレートしていき、反社会的勢力に入会を勧められ断られない状況になった。しかし、幼少期から何不自由なく貧しいながらも育ててくれた親の愛情のおかげで、一線は超えることはなかった。ただ、地元ににはいられず、着の身着のままで東京に逃げて反社会勢力から身を隠すこととなる。

1年経ってほとぼりが冷めたときに地元に帰る。資格も学歴もないので大した就職先もなく、アルバイトをして食いつなぐ。このとき20歳であり、周りの友達はしっかりした仕事に就いていたり結婚して家庭を築いている中、自分はアルバイト生活をしている。このときに自分の今後の人生は大丈夫なのか?という強烈な不安と劣等感に襲われる。

そんなとき、両親が新聞の広告で整体師の学校の記事を見つけてくれて、整体師の学校に入学することになる。小学生のときに、祖母のマッサージをして喜ばれた記憶があり、人の身体に触ることは好きだったし、人の身体の勉強をすることも好きだったので、入学を決意する。

電車で片道1時間半かけて必死に通学をした。人の身体のことを勉強することは楽しかったが、自分の考えの甘さと知識の浅さから患者様を良くすることができるはずもなく、卒業したは良いが技術に自信がなく、整体の仕事には就かなかった。挫折して再びふらふらすることになる。

22歳となり、周りの友達は就職していたり大学を卒業していたり人生を確実に進んでいる中で、自分だけはふらふらした。不自由なく育ててくれた両親に申し訳ないのと、成長して報いるためにも何とか社会復帰をしたくて、まずは最低限、高卒の資格だけでも取ろうと思い、定時制の高校に入学することになる。

22歳で高校生という不安はあったが、このままだと、ろくな人生にしかならないからやるしかないと思い、昼間は仕事をして、終わったら定時制高校に通うという日々を必死に過ごした。そんなときに、定時制の談話室の本棚に、「理学療法士になるためには」という本に出合う。この本との出会いが私の人生を大きく変える。

整体の学校を卒業した当時は、自分の未熟さで技術も知識も浅い状態で、とても人の身体の不調を改善できるレベルではなかった。医師とともに仕事をする理学療法士になれれば、自信もつき、人の身体に関われて喜ばれる仕事に就けると思い、その本をひたすら読み進めた。

読んでいくうちに、今の自分の学力では理学療法士の学校に入学するのが難しいということが分かる。

ただどうしても諦められなかったので、当時お世話になっていた定時制の先生に家庭教師を依頼する。
その先生との出会いが私の人生のターニングポイントの1つになる。定時制の業務終了後(21:00過ぎから)無償で勉強を教えてもらうことになる。

そのおかげで無事に理学療法士の学校に合格することができた。このときの感動と喜びは今も忘れない。そして私の中で大きな成功体験となっている。

専門学校
周りの同級生のほとんどが18歳で、私は当時25歳。なので絶対に留年はできないと思い必死に勉強をした。理学療法士の実習はきつく、多くの同級生が留年したり自主退学したりとドロップアウトしていった。2カ月間平均睡眠時間3時間だったりしたが、誰よりも泥臭く勉強を継続して、何とか卒業して国家試験を合格できた。

会社員時代
地元の整形外科病院に就職する。今では考えられないが、知識や技術の向上のために、深夜まで病院に残り仲間と勉強したりしていた。朝は7時に出社してみんなで勉強をしていた。休みの日は外部の勉強会に参加したりと、仕事のために有意義な時間を使っていた。このときの体験は、現在にとても大きな影響を与えている。

人の身体の健康に関わる仕事なので、自分の身体のケアも心掛けていた。
しかし、ある時、患者様をベッドから起こそうとしたときに腰に激痛が走る!
その場で動けなくなりしばらくうずくまるが、仕事中ということもあり何とか這い上がる。

腰の激痛は数日たっても収まらず、座っていることも辛くて車の運転も満足にできなくなる。勤務していた病院でMRIをとってもらうと、椎間板ヘルニアと診断される!
しっかりと椎間板が神経を圧迫している画像を見て、目の前が真っ暗になる。「どうしよう」と。

このままでは仕事ができなくなるし、日常生活も難しくなる。脚にしびれも出てきた。
もしかしたら手術するしかないのか?という不安を感じていた。
しかし、手術という選択はしたくなかったので、同僚に施術してもらったり、自分でセルフケアなどをした。すると、数週間で痛みはなくなり完全に治った。

きっと、患者様は当時の私のように痛みと不安を抱えながら、この先どうしようという先行きが見えないような感情なんだろう。このときに薬も手術もせずに完治することができた実体験が、患者様を良くしたい!という私の原動力になっている。

そんな中、病院内の人間関係に悩んだり、チームワークで悩んだり、医療保険の枠の中でやれることに限界を感じ始めた。
そして、保険の枠に縛られず患者様の良くしたいという思いが強くなり、8年間勤務したのちに整体院を独立開業をすることになる。

現在
しかし、独立したばかりは多くの失敗や苦労をした。痛みや不調を改善できないこともあった。そして、外部の勉強会などに参加して知識と技術を向上させていくと、中には病院で手術した方が良いと言われるような人たちが良くなって、手術しなくても良い状態になったりと、目の前の患者様に喜ばれる経験が増えていった。

当時、ヘルニアになった私のように、相手の身体の不調を取り除くことは、相手の人生のターニングポイントになることもある。なぜなら、中には転職を余儀なくされたり、スポーツができなくなったりと、やりたいことを我慢しなくてはならない人も多いからだ。

ほんの少しの痛みでも、痛みがある状態とない状態とでは、日々の幸せは半減する。今まで当たり前のようにできていた仕事や家族との旅行なども、不調があることで常に痛みを感じるので、楽しさが半減する。それを、薬を使わずに改善できて、さらにそれを維持するためのセルフケアなどを患者様に伝えて、5年後10年後の健康のために関わることに喜びとやりがいを感じるようになる。

そして、仕事をしていくなかで、目の前で患者様に喜んでいただき、更に仕事の楽しさを感じるようになっていった。もっと世の中の人たちに喜んでもらいたくて、一生この仕事でやっていきたいと思うようになった。

だが、仕事も順調だったある日、独立して3年後に原因不明の体調不良となり、40度以上の熱が出て一晩に4㎏痩せるという経験をする。今思えば、朝5時に起きて仕事開始して、21時まで施術。休みの日は技術セミナーに参加という生活をしていたのだから当然のことだ。

そして、患者様の予約を全てキャンセルしていただき、数日間寝込んで体調回復に専念する。このとき、健康の重要性を改めて実感する。日々、当たり前のようにある健康というのは、失ったときに初めてそのありがたみを感じる。仕事ができることも家族と過ごせることも当たり前ではない。そのことを身をもって経験した。

しかし、整体で今の身体の痛みや不調を改善することはもちろん必要だが、それが戻ってしまっては意味がない。健康とは、自分で自分の身体をケアできる状態がゴールであり、健康は失ったら、仕事もお金も家族もすべて失いかねないもの。

もっと、根本的なところから人の健康に関わりたいと思うようになり、従来の整体に加えて、体質改善や栄養や食事療法のことを学びにいくことになる。

そのおかげか、自分の体質を変えることができ、今では体調を崩すこともかなり少なくなる。健康は人間の最大の財産であり、自分の健康もそうだけど、家族や大切な人の健康も大事だということを、心から思うようになり、患者様にも伝えていくようにしている。

まとめ
世の中にたくさんある仕事の中から、人の身体に関わる今の仕事に就けているのは、今は亡き祖母をマッサージして喜んでもらえた、という嬉しい思い出が残っているからだと思う。
中学から22歳くらいまで、人生をドロップアウトして両親に迷惑をかけて、世の人たちにも迷惑をかけて生きてきた。まさに社会の底辺にいた。

そんな自分でも、知識と技術をもって、地域の人たちに不調のない生活を送っていただき、健康寿命を延ばすことに関われている。

更に今は、現代医学では治せないような、難病にアプローチできるように学んでいる。
どこへ行っても良くならない難病の人に関わることができたらどんなに良いことか。
開業当時は1人で戦っていたが、遠方から来ていただく患者様と、通ってくれるスタッフのために、店舗も増やすこともできて「地域で一番人を大切にする整体院」という理念を達成するための仲間もいる。

色々な人たちに迷惑をかけてきた分、これからはそれ以上に多くの人たちの役に立てるように、最大の財産である健康をもっとサポートできるように今後の人生をかけて尽力していきたいと思っている。

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